「つくる」ということ。

昨日の続きを。
ちょっと(いやかなり)長くなるよ…
 
この話題で,業界がものすごくナーバスになっていた頃(つまりCCCDとかを始めた時期)は「もうこんな業界なら消えてなくなれ,アンタらが路頭に迷ったって,この地球から音楽は消えてなくなったりしない!」と怒り狂っていたのだけど…まぁ冷静に考えれば,私達がこうして,居ながらにして世界中の音楽に触れられるようになったのは誰のおかげか。そのことに対するリスペクトというのも,また持たなくてはいけない。
 
ではもう少し具体的に,アーティストや業界の権利は,どれくらいの間保護されるべきか。これが,ある意味この問題の最大の焦点なのかもしれない。
アメリカでは,これがどんどん引き延ばされている。「ミッキーマウス保護法」などと揶揄されることもあるようだけど,何もミッキーを今すぐパブリックドメインに帰せ,というわけじゃないと思うのだ。世紀を超えてなお愛され続け,そして利益を生み続けるスーパーキャラ。ミッキーはディズニーの象徴,いやディズニーそのものであると言ってもいい。もちろん,自分も嫌いじゃありませんよ。あの『Fantasia』なんて,自分にとってはもう半ばバイブルみたいなものだ。
では“その他大勢”の作品はどうか。今や,1年間売れ続けるレコードすら珍しい。大抵はもう,発売後の数週間で売上の大部分を占めてしまう。すぐに中古ショップに並び,市場原理に基づいた価格で取り引きされる。消費のサイクルは,どんどん短くなっている。もっと“長く愛される”ような作品づくりに,アーティストや業界が真剣に取り組んでいない現状もあると思う。
そういった“その他大勢”の作品と,ミッキーのような“別格”ともいえるものを,今のアメリカは,全部ひとまとめに,無条件で,非常に強力な著作権法によって保護しようとしている。レッシグ教授などが指摘しているのもまさにこの点で,これはどう考えてもおかしい。
アーティストにしたって,いつまでも過去の遺産にしがみついて食い繋いでいこう…なんて人はそんなにいないはずだし,そもそもそんなコトではダメだろう。
いずれにせよ,自分の作品をどう扱うかは,それを作った本人に決定権があってしかるべきだ。もう一度,原点に立ち返らなくてはいけないと思う。今の状態は,何のための,誰のための著作権法なのか,本当にわからなくなってしまっている。
ウォルト・ディズニーは,今の状況を見て,天国で何を思うだろう…
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ちょっと話はそれるけど,以前何かで「この世で最高の音楽とは,目の前で,自分のためだけに演奏される音楽だ」と言った人がいたのを憶えている。それは,音楽の原点でもある。愛すべき人のために,心を込めて…(最近サラウンドに興味を持ちだしたのも,それがまさに,その状態を可能な限り“再現”してくれる技術だからでもある)
ある意味“誰が作ったか”ということすら,もうどうでもいいのだ。純粋な感動がそこにはある。例えば,各地に伝わる民謡,子守歌…時代を超えて歌い継がれるメロディ。その多くは“作曲者不詳”だったりする。
最初に作った人は,もう本当にスゴイと思う。どんな悪人だったとしても許す。
もし自分の歌が,数百年後も歌い継がれているとしたら…もうそれだけでいい。名前なんて残らなくてもいいではないか。
音楽が産業になったのは,録音技術が発達してからのこと。いつの時代でも,音楽家はえてしてビンボー人であり,社会的には弱者だった。ネガティブな境遇だからこそ,人一倍感受性が強くなり,そこに研ぎ澄まされた何かが生まれるのだ。
 
醜く太った金の亡者に…“最高の音楽”など,つくれるはずがない。