「ライブである」こと。

先週の『週刊アスキー』に連載中の,歌田明弘氏のコラム「仮想報道」を読んで思ったことを。
記事の内容は,もう少ししたら,こちらにもアップされると思います。
http://blog.a-utada.com/
 
検索技術が高度に進化して,(Web上の)コンテンツに直接アクセスせずとも“答えそのもの”を得られるようになった時…それらのコンテンツの“作品”としての存在意義,ひいては著作権などの問題がどうなるのか。
クリエイターにとっては,ちっとも面白くない話である。自分が苦労して作り上げたモノを,実際には誰も見てくれず,それは単なるデータの供給元にすぎなくなる…かもしれないなんて。
そしてこれは,現在の音楽界で起きていることとも繋がってくる。合法/非合法を問わなければ,世界中のありとあらゆる音楽を,居ながらにして“タダ同然で”手に入れられるのだ。
HDDに貯め込まれた楽曲のなかには,おそらく「1度も聴かれることのない」モノも少なくないだろう。とすると,それらは「音楽作品」ではなく,もはやただの「データ」にすぎない…
アーティストにとって…これはある意味,屈辱的とは言えまいか。
 
そこで…今日のタイトルなのである。
氏はコラムで,今やWeb上にないものは“存在していない”のと同じになりつつある…と書いているが,これには少々異を唱えたい。少なくとも「音楽」に関しては,それは明らかに“言い過ぎ”である。
 
どれだけ,テクノロジーが進化しようとも。
古今東西,最高の音楽体験とは…
目の前で「自分(たち)のために」演奏される…
「そこでしか聴けない」音楽。
 
そこで得られる感動には,時代や場所を超えた,普遍的なものがあると信じているから。
いい演奏を届けよう,楽しんでもらおうとする側の気持ち,努力。
そして,それを受け止めてくれる人たちがいて。
それがひとつになった時に生まれる…“something special”
それは,スピーカーやディスプレイ越しには,やっぱり伝わらないんじゃ…ないだろうか。
 
いや,ハイビジョンとサラウンドなら…ってヒトもいるかもしれないけど(笑)それは,あくまで「疑似体験」であって。もちろん,それを否定してるのではなく。自分も,ライブアルバムとか結構好きだし(名盤もいっぱいあるでしょ?)
逆に,シェーンベルクの十二音技法みたいな…生身の人間が介在するのが不自然にすら思える(?)タイプの音楽というのも,またあるわけで。
でも例えば,いまどきの「ラップトップ・ミュージシャン」にしたって…やっぱり,ステージに上がってるじゃない。コンピュータという「楽器」を携えて。“something special”を求めて…
そこは,もう同じだと思うんだよね…
 
ダメだなぁ。こういうハナシになると,もうとりとめがなくなって…
折しも,自分も来週…バンドで,7年ぶりのステージに上がります。
いろんな意味で,暑苦しいステージになると思いますが(笑)…来てくださるみなさんに,“something special”のカケラでも…届けられたらいいなと♪
 
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ps:3年半前にも(ちょっと視点は違うけど)こんなこと書いてました。
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